2011年1月29日土曜日

宴の後で

このブログ、もはや失恋日記と化している。湿っぽい!いや、これは失恋なのか?違うな。人との別れはいつも辛い。また会えるって知っていても、ここにいないこと の事実に打ちのめされる。
私は何でいつも涙が出るまで気付かないんだろう、自分の気持ちに。
なんで最後の最後になるまで自分の気持ちを肯定しないんだろう。
ばかみたい。

やるべきことはたくさんあって、一つの事に向かう心は一つしかなくて。
たくさんのキスを自分に、周りに、
ふー。へいあんをとりもどさなくちゃ。

2011年1月15日土曜日

フランスとイタリアの間

信じていたものがボロボロと崩れていった
信頼って何だろう
倫理って何だろう
私はそういうことを人にして来たのかな

周りで花咲く色んなことに共感出来なくなるなんて思いもしなかった

こんなところで止まっている場合ではないのに

こんなにたくさんの人がいてそれぞれ自分の人生に一生懸命で
私はまだまだ会わなくちゃいけない人がいる

お正月に出会ったある人はこんな人世の中にいるんだと思うくらい
親切で
イタリア人とか国籍とか関係ないなと思った

と同時に
分かっていたつもりのイタリア人が全然分からなくなるときがある
イタリア人の友達がすごく遠くに感じる事がある

誠実であるって何だろう
私はどんな事を人にしているのだろう
怖くなる

2010年に立てた目標が全然達成出来てなくて
自分の心に100パーセントしっくりこないものは
起こりえないかもしれない

居心地が悪いのにがんばることない
仕事とか家庭環境とかやむを得ない場合を除いて

100パーセント自由意志に任せられているなら
私はいたい所にいる

全然まとまってないけどよしもとばななの
『海のふた』の一節を思い出した
... ただ生まれて死んでいくまでの間を、気持ちよく、おてんとうさまに恥ずかしくなく、石の裏にも、木の陰にも宿っている精霊たちの言葉を聞くことができるような自分でいること。この世が作った美しいものを、まっすぐな目で見つめたまま、目をそらすようなことに手を染めず、死ぬことができるように暮らすだけのこと。

イタリア人のいい加減さ、好きな振りをしていたけれど、そぐわない部分があるのも当たり前なんだ。
好きな部分もあるけど、去年はもっとシビアに批判していて、自分が苦しくなっていた。
今年は鷹揚に見ていてかえって自分にも甘くなったんじゃないかな。
私前からそんなんだったかな。

誰かの何かを無かったことにしてないかな
誰かの何かを踏みにじってないかな

感受性が久しぶりにびんびんだ。

なかったことにして目をつぶって、本当は嫌で、そのつもりつもったものが。

清く正しく生きることなんてかっこわるい、みたいな、ぐれるのがかっこいいと思っている中学生みたいだ。
私はその箱から出られないし、その箱をもって生きるのだろう。
指針として。
自分の心がよしとするものを、ごまかさないで見つめないと。

会いたい人はみんな遠くにいるよ
でも私はそれを選んだんでしょう?
それは近くを耕すことをおろそかにしているから?

ぐちゃぐちゃだ、もう寝よう。

おやすみなさい、良い夜を。